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文化財の宝庫 “まぼろしの「旧 堂立山慈恩寺」”を探る!
◯ 『熊野山(今の饗庭野)の奥茅(かや)尾の東麓(堂立山)に慈恩寺があった。
慈覚大師円仁(第三代天台座主794~894)が創建したものである。元亀年間に、信長の命による明智光秀の兵火で焼失した』との江戸中期(宝暦5年)の記録あり。
◯ 『室町前期(1300年代末)に、宰相饗庭重髙の追善菩提として、西蓮(林)坊、法泉坊、常(定)林坊を願人に、日爪村慈恩寺が建立された。』との室町期の記録あり。(饗庭家文書)
慈覚大師円仁(第三代天台座主794~894)が創建したものである。元亀年間に、信長の命による明智光秀の兵火で焼失した』との江戸中期(宝暦5年)の記録あり。
◯ 『室町前期(1300年代末)に、宰相饗庭重髙の追善菩提として、西蓮(林)坊、法泉坊、常(定)林坊を願人に、日爪村慈恩寺が建立された。』との室町期の記録あり。(饗庭家文書)
● 『覚傳寺十一世住職であった拈華實参和尚が、享保2年(1717)に
● 覚傳寺を隠退して慈恩寺を開いた」との記録あり。
● 現在の慈恩寺に、平安期制作の巨像である「薬師如来座像」や「阿弥陀如来座像」など、多数の文化財が残されている。
● 慈恩寺が再建された「千間平(慈恩寺藪)」付近には、かつて、高島七ケ寺の1つである「大谷寺」が存在したとの記録あり。(『木津荘検注帳』応永29年(1422)) また、吉武氏が開いた「報恩寺」が、上野村から日爪村の日爪権介屋敷の西に移された、との記録が あり。やはりこの付近と考えられる。