『饗庭家文書』の『定高卿(重髙の長男)由来』明徳2年(1391)条 には、 「宰相饗庭重髙の追善菩提として、日爪村慈恩寺を建立した。願人は、西蓮(林)坊、法泉坊、常(定)林坊である。」とある。
『堂立山慈恩禅寺記』(『幽谷餘韻』實巌千丈著宝暦5年(1755)・・・後編巻4-6第二章記類1)や、『高島郡誌』(高島郡教育会発行昭和2年)によると、 「本寺の本尊は薬師如来で、熊野山(今の饗庭野)の奥茅(かや)尾の東麓(堂立)にあった。慈覚大師円仁(第三代天台座主794~864)の創建による。元亀年間、信長の命による明智の兵火あって廃墟となり、佛菩薩の諸像は燃えがらの中に散乱し、風雨にさらされていた。百余年前に、日爪村の人々が村外れの千間平に小堂を立てて、薬師如来像、阿弥陀如来像、日・月光菩薩像、十二神将像を安置した。周辺の村人は日爪の薬師堂と呼んだ。享保の初、覚傳寺十一世拈華實参和尚(1677~1760)が村民に請われて薬師堂に隠棲し、再び堂立山慈恩寺を開いて覚傳寺の末寺とした。境内は二百二十五坪、本堂は間口八間、奥行四間であった。」とのことである。